近頃、私は小学校3年生の息子に嫉妬しています。
この息子、3年生になるまで、まったくといっていいほど自分から本を手にはとろうとしませんでした。押しつけるつもりは毛頭ないにしても、わが子には、ぜひ読書の喜びを知ってもらいたいと思っていた私としては、少々あせりがではじめていたところです。
まわりに本がありすぎるのがよくないのだろうか、とか、好みにあいそうな本を見つけて勧めてやるべきだろうか、などと気をもんだりもしました。
一方では、毎日外で目いっぱい遊ぶ姿を好ましく思い、確かにこれじゃあ本なんか読んでる時間はないし、いまどきの子どもにしては、とてもすばらしい時をすごしている幸せなやつなんだから、このままでいいじゃないか、「本はなくとも子は育つ」などと開き直ったりもしていました。
ところが親のそんな気持ちの動きなどとは無縁に、突如、彼の読書期ははじまりました。たまたま手にした一冊の本がたいそう気に入り、たちまちその続きもののシリーズを読んでしまったのを手はじめに、その勢いはすごいものです。タイトルのなかに冒険、探検という文字があるものを中心に、家にある本も、公民館の図書室にある本もかたっぱしから手をつけるといったありさまです。
あいかわらず、学校からもどるとカバンだけ放り投げてそのまま外に遊びにいってしまうというパターンはかわっていないので、彼の生活の密度はぎゅっと濃縮されました。
読みっぷりもみごとで、読みはじめるとまわりの音などいっさい聞こえなくなってしまいます。寝る時間だからと中断されると、さんざんごねたあげく、翌朝いつもよりずっとはやく起き出して、みんなが寝ている間にひとり読みふけることもたびたびです。
子どもの読書について、かのケストナーが書いています。少々長い引用ですが……
「本の上にかがんでいる少年は台所にこしかけているように見えるだけである。(中略)彼自身はまさに海賊船に乗りこんでいる。あるいは、アラディンのふしぎなランプをもって、秘密に満ちた丸天井の穴ぐらを歩いている。あるいは、彼は、お母さんに呼ばれた時、無人島で、彼がのちに金曜日くんと呼ぶであろうところの野蛮人に会っている。お母さんは小さいフリッツをゆすり、腹だたしげに『おまえ、聞こえないの?』と、たずねる。彼は夢からさめたようであるが、まだ海のざわめく音が聞こえている。(中略)あるいは、木の枝がとび色の足の裏の下でぽきぽきめきめき音を立てていた。どうして少年にお母さんの声が聞こえただろう? いったいどの耳で聞くことができただろう?」
(高橋健二編訳『子どもと子どもの本のために』岩波書店)
そうなんです。まさにこの通りのことが彼の身に起こっているのです。そして、これは私自身が子どもの時に経験していたことでもあります。
しかし、いつの頃からでしょうか、悲しいことにあれほどまでにどっぷりと本の世界につかることはできなくなってしまいました。
これがうらやましがらずにいられましょうか。しかも、彼の前には無限とも思えるまだ見ぬ本の大海原が広がっている!
息子の姿を見ていて、つくづく思います。やっぱり、読書は喜び以外のなにものでもないのだと。一度その喜びを味わったが最後、おそらく彼を本から遠ざけることなど誰にもできないでしょう。
ときおり、ページを繰る手を止めて頭をもたげ、遠くを見るような目つきをしている息子の横顔にたまらない嫉妬をかきたてられる私です。
もう一度、もう一度だけでも、あの感覚をとりもどしたい!
「子どもの本を選ぶ」1994年11月10日号(ライブラリー・アド・サービス発行)
ちなみにこのとき小3だった息子は、いまは中学1年生。部活だ、定期試験だといそがしくなったにもかかわらず、ひまを見つけては手当たり次第に読むという日々を送っています。もひとつついでにいえば、彼が本にはまるきっかけになったのはヘンリーくんシリーズでした。
いまでは、同じ本を読めば(もう大人向けの文庫本でもなんでもござれ)私のちょうど倍のスピードで読むようになり、そっちの方でも私の嫉妬の対象です。(1998.9 やまねこ会議室より)
copyright © 1999, 2002 yamaneko honyaku club