2001年10月29日発行
†第一部 『レモネードを作ろう』をめぐって
ψ講演録:『レモネードを作ろう』をめぐって〜子どもの本を翻訳して〜 (講師 こだまともこ)
ψ論考 1)自尊心をもって生きよう――若者へ向けた熱いメッセージ
2)ラヴォーンはジョリーと出会って何を得たのか?
†第二部 未訳作品紹介
ψRated PG (1981)ψProbably Still Nick
Swansen (1988)
ψThe Mozart Season (1991)ψBat6 (1998)ψTrue
Believer (2001)
『レモネードを作ろう』
ヴァージニア・ユウワー・ウルフ作 こだまともこ訳
徳間書店 1999年4月 ISBN4-19-861005-3
"Make Lemonade" 1993
大学へ行くことで貧しさから抜け出したいと願う14歳のラヴォーンは、17歳のシングルマザー、ジョリーに出会う。ラヴォーンはジョリーに同情し、ジョリーの力になろうとするが……。第47回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞受賞作品。
※詳しいレビューはこちらをご覧ください。
http://www.yamaneko.org/dokusho/shohyo/osusume/1999/lemon.htm
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ψ講演録:『レモネードを作ろう』をめぐって〜子どもの本を翻訳して〜
講師 こだまともこ
(本講演録は2001年2月17日、世田谷子ども読書推進ネットワーク開発実行委員会の主催により、世田谷文学館において行なわれたこだまともこ氏の講演を要約したものです。ご本人の承諾を得て掲載しています。)
わたしは、ふだんは出版社からお話があったものを訳すことが多いんですけれど、『レモネードを作ろう』は自分から出版社(注:徳間書店)へ話を持ち込んだんです。作品を知ったのは、英国で開かれた児童文学のシンポジウムに出席したときでした。シンポジウムで話題になったわけではないのですが、隣の席に偶然座った方が「いい本よ、ぜひ読んでみて」とすすめてくださったんです。それで、シンポジウムが終わったあと、ロンドンで英国版の
"Make Lemonade" を買い求めて帰国しました。読んでみてとても気に入りましたので、出版社に翻訳出版したいと相談しました。英国でも米国でも、とても評判の本でしたから、当然、出版社のほうでも、この作品は読んでいました。ただ、散文詩のような文体の、非常に個性的な作品なので、すぐに出版が決まったわけではありません。
実際に翻訳の作業をはじめてみたら、やっぱりとても難しかったですね(笑)。でも、ちょうどその頃、英国でまた別 のシンポジウムが開かれることになって、作者のウルフさんが出席することがわかったんです。翻訳家の友人に「一緒に行きましょうよ」と誘われたときは、あまり気乗りがしなかったのですが、ウルフさんに会えるならと参加を決めました。そして、実際にウルフさんにお会いしたとき、すでに抱えていた翻訳上の疑問点などを質問しました。ウルフさんは、とても親切に答えてくださいました。日本のシングルマザーが置かれている状況などについて、逆に質問もされました。高校の先生をしていらしたこともあって、アメリカだけでなく、若い世代全体が抱えている問題を、非常に深いところで理解して、考えている方です。
このシンポジウムがきっかけで、その後はウルフさんと密に連絡を取り合って翻訳作業を進めることができました。表現上の疑問点だけではなくて、作品中にはアメリカ特有の事情などもありましたので、日本の読者にわかりやすいように言葉を置き換える相談もしました。
わたしは、本にも、人間と同じように個性や運命があるように思うんです。たとえば、わたしが訳した「メニム一家」のシリーズ(注:シルヴィア・ウォー作/講談社)は、とにかく読者カードをたくさん返送いただいた本でした。『レモネードを作ろう』は、読者カードはそれほど多くなかったんですけれど、書評など、あちこちで取り上げられました。地味な本なので、最初は子どもより大人の注意をひいた本ですが、このごろでは高校生や大学生にもよく読まれているとききます。
『レモネードを作ろう』には強いメッセージがこめられていると思います。実は、わたしはメッセージ性の強い作品は苦手なんです。「読者にこういうことを伝えたい」というのが、あまりにもはっきりしている本って好きじゃなくて……。でも、この作品を読んだとき、作者の魂の言葉が――「環境の犠牲にならずに生きていってほしい」という子どもたちへの強いメッセージが――まっすぐに心の中にはいってきました。わたしにとっては、すごく新鮮なことでした。
また、この作品は主人公の人種を特定していないんですよね。ウルフさんも「主人公の人種を特定していないことも、わたしのメッセージのひとつ」という意味のことをいっていました。「わたしの部屋の壁に、韓国の少女の絵がかかっているけれど、そういう少女かもしれない。それとも、日本の少女かもしれない……」とも。
作品のなかでは、「学校」という場所が、とても大切なものとして描かれています。「学ぶ」ということが、悲惨な環境から脱出する手段だとストレートに訴えているんです。これも、とても印象的でした。日本の児童文学では――といっても、わたしもすべてを読んでいるわけではないので、知っている範囲でのことですが――学校が悪者になっていることが多い気がします。そういう作品は、学校以外にも大切なことがあるんだよ、と伝えてはいても、「それではどうすればいいのか」が書かれていない。現代に生きる子どもが、悲惨な環境にある事実を読者に突きつけることはしても、それをどう乗り越え、そのあとどうしていけばいいのかを示していないんじゃないでしょうか。それだと、本は、読まれなくなってしまいますよね。
子どもたちには、たくさんの本を読んでほしいです。子どものときに本を読まないと、行間を読む力が育たない気がするんですよ。今、翻訳学校で20代後半から60歳くらいの方々に教えているんですけれど、同じ短編を訳してもらっても、それぞれ行間を読み取る力の差があるんですね。翻訳の勉強をなさっている方々だから、英語は当然おできになる。でも、字面
を追うだけで、行間を読めない方がいるんですよ。行間を読めないとその作品の深さがわからない。これは、子どものときにどれだけ本を読んだかということじゃないかと思います。行間を読むって、ある意味で、その人の生き方に関わってくると思いますね。
(要約:柳田利枝)
※こだまともこ氏については、やまねこ翻訳クラブのホームページにインタビュー記事が掲載されていますので、あわせてご覧ください。
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『レモネードを作ろう』
ψ論考1)自尊心をもって生きよう――若者へ向けた熱いメッセージ
三緒由紀
※論考の性質上、物語の結末に触れています。作品を未読の方はご注意願います。
どんなときも、自分の可能性を信じて前向きに生きてほしい。『レモネードを作ろう』は、作者の熱い願いがこめられた作品である。
全篇を通して、作者は激励のメッセージを送りつづける。メッセンジャーは14歳の少女だ。14歳の感性で散文詩的に語られる14歳のありのままの言葉は、読者――とりわけ、ひとりだちしようと羽ばたきはじめている若い読者の心に深くきざみこまれ、未来を力強く生きていくための礎となるだろう。
ラヴォーンは幼いころに父親を失い、しっかりものの母さんに女手ひとつで育てられた。暮らしは貧しいがまじめに勉強し、進学を希望している。大学を卒業していい仕事につき、貧しさから抜けだすのが夢だ。母さんもラヴォーンを応援している。
ジョリーは、ラヴォーンより3歳年上のシングルマザーだ。里親に死なれて以来、親身になってくれる人もなく、学校は中退し、幼いふたりの子どもを養っている。夢を持つ余裕はない。それどころかいつ見舞われるかしれない不幸におびえながら、一日一日を生きている。
ラヴォーンとジョリー。ふたりの境遇はかけ離れているうえ、さらに、その差がふたりの間に根本的な違いを生み出している。自分の価値を認めて可能性を信じられるか否かの違いである。
ジョリーは悪い仲間と縁を切り、最低賃金だがまじめに働いていた。にもかかわらず、上司にセクハラされ失業してしまう。努力しても認められない不遇な日が続けば、自尊心が萎え、前向きに生きられなくなっても当然だ。しかし、ここで作者は、ラヴォーンに、ジョリーに、そして読者に問いかける。恵まれないからといって、悪循環をこのまま続けていいだろうか?
このままではいけないと最初に気づき、この悪循環を断ちきる糸口をみつけだしたのはラヴォーンだ。ジョリーは読み書きもまともにできない。けれど、勉強しなおして、きちんと学校を卒業すればもっといい仕事につけるはずだ。ラヴォーンがこうして前向きな発想をできるのは、母さんの影響によるところが大きい。自分で決めたことは責任を持ってやりぬ
くことを信条とした母さんの強さや大きさを、ラヴォーンは幼いころから見つづけてきた。母さんの中にある自尊心は、知らず知らずのうちにラヴォーンの中にも培われてきている。さらに、母さんに、「自慢の娘」、「母さんの誇り」と認められほめられた経験が、ラヴォーンの自尊心をより強いものにした。
自尊心は、問題にぶちあたってそれを乗り越えるときの、エネルギーの核となるものではないだろうか。だから、自尊心の萎えてしまっているジョリーは、ラヴォーンがいくらお膳立てしても、まじめに考えて、本気でがんばろうとしない。「あたし、ちゃんとやっているじゃーん……」とうそぶき、学校では「かったるい」態度を見せる。
ジョリーにいらだったラヴォーンは「中途半端な避妊をして、幸せになった?」と大変な失言をしてしまう。ジョリーの負い目の核心をついたこの言葉が、結果 的にはジョリーの自尊心を目覚めさせた。ジョリーは「どーせあたしなんか、あんたの満足するようにはできないんだから」と涙ながらにまくしたてて言い返したときにはじめて、自分が投げやりに生きていて、そんな自分が自分で嫌だと思っていることに、そして、このままではいけないことに気づくのだ。
それを機会にジョリーは変わっていく。家の中を掃除し、まじめに宿題にとりくみ、「誰も教えてくれない」と人のせいにばかりしなくなった。そして、幸せだった里親との暮らしをはじめてラヴォーンに語る。この時期にジョリーが里親を思い出したのは、自分自身の価値を認められるようになったからにほかならない。そして、愛され大切にされた思い出は、さらに自分の価値を認めていくことにつながる。こうして、ジョリーは自尊心を回復し、悪循環を断ちきった。
だが、変わったのはジョリーだけではない。ラヴォーンにも大きな内面的な変化があった。ラヴォーンは、ジョリーと関わるのを母さんが好ましく思っていないと知りながらジョリーを助けた。それまで絶対だった母さんの価値基準から外れたところではじめて行動し、しかもやり遂げたのだ。母さんの評価を無視して自分の意思に従った経験は、ラヴォーンに大きな自信をもたらした。そして、母さんから受け継ぎ、母さんを頼りに育んできた自尊心を、今度は自分の力で養い、自分のものとして持つことができたのだ。大学へも、母さんに認められるためにではなく、真剣に考えて自分のために進学したいと望むようになる。
思春期は、精神的に親から離れてひとりだちする時期である。親の囲いからひとりで外へ出ていくのだ。当然、希望と不安が入り混じる。自分を見失い、道を迷うときもあるだろう。挫折し、無力感にうちのめされ、自己嫌悪に陥るときもあるだろう。「宇宙でロケットを修理するために外に出た宇宙飛行士の命綱が切れたとき、宇宙飛行士がどんなにひとりぼっちか」と考えるジョリーのように、途方もない孤独感に襲われるときもあるだろう。けれど、どんなときも大切なのは、自分の価値を認めて可能性を信じること――自尊心を持つことだ。
ラヴォーンとジョリーは人生を力強く生きぬくための大きな礎を築きあげた。ふたりは、本が閉じられたあともいつまでも読者の心の中で生き、「レモネードを作ろう」と励まし続けるだろう。
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『レモネードを作ろう』
ψ論考2)ラヴォーンはジョリーと出会って何を得たのか?
大塚典子
※論考の性質上、物語の結末に触れています。作品を未読の方はご注意願います。
「たしかに起きたんだけど、なにが起きたのか、本当に分かってるって聞かれると、あんまり自信がない、そういうことってあるよね?」これはジョリーと過ごした日々についてのラヴォーンの感想。苦労して人生のマイルストーンをひとつ通
過したばかりの彼女だが、自分が成し遂げたことの意味がはっきりとはつかめていない。それでも何かが変わったという手ごたえだけはしっかりとあるのだが……。いったいジョリーと出会ってから彼女に起きたことは何だったのだろう? それによって彼女が得たものは何だったのだろう? ラヴォーンとジョリーの関係をふりかえりながら、これらのことを考えていきたい。
貧乏が巣食う町から出ていくために大学にいこうとする優等生ラヴォーン。彼女には生きていくすべをきっちりと教えてくれる母さんという大きな存在がある。母さんは自分の世界観をしっかりと持っていて、それが唯一正しい考えだと信じている。一方、17歳でふたりの子どもを育てるジョリーには、生活の基本を教えてくれる人さえいない。まったく違った環境に暮らすふたりが、ひょんなことから知り合い、関係を深めていく。
一見、ふたりの間には、社会からドロップアウトしそうなジョリーをラヴォーンが助けるという構図が成り立つかのように思える。劣悪の環境に暮らす、オムツも取れないふたりの子どものベビーシッターは割に合わないアルバイトだ。母さんからも友だちからもやめたほうがいいといわれながら、なぜかラヴォーンは「やめる」とはいわない。宿題をする時間もとれずに成績は落ち、ジョリーが職を失ってバイト代をもらえなくなっても、ジョリーのアパートに通
い続けた。それどころかベビーシッターとして手を貸すだけにとどまらず、もっとジョリーの生活全体にまで深く立ち入っていったのだ。社会の悪い面 ばかり見せられてきたジョリーは社会を恐れている。本来、助けてくれるはずの福祉さえ、子どもをさらっていくひどい制度としか思えない。ラヴォーンはジョリーのこの不信感を取り除き、もっと広い社会、まともな社会を見せようと躍起になった。ところが当のジョリーは、初めまったくやる気を見せない。だから表面
的には、ラヴォーンがひとりでジョリーのために尽くしているようにしか見えないのだ。
しかし本当にふたりの関係は一方的なもので、ラヴォーンだけが損な役回りを演じていたのだろうか? ラヴォーンの心をこれほどまでにジョリーに向かわせた何かがあったのではないだろうか? もちろんふたりの子どものかわいさもひとつにはあるだろうが、それだけでは理由として弱い。そこで、ジョリーの自立心がラヴォーンを強く引きつけたと考えてはどうだろう。不安定な生活を送ってはいるが、ジョリーには精神的に誰からも縛られない自由がある。初めて会ったとき、バイトしていいかどうかを母さんに聞いてから決めるというラヴォーンを、ジョリーは非難と警告の目で見た。この目がラヴォーンに、母さんから自立しないとだめだよ、と語りかけたのだ。そこからラヴォーンの自立へ向けての戦いが始まった。
ラヴォーンは自分の判断だけで生きているジョリーを見て、いままでは絶対だと思っていた母さんの存在に疑問を持つようになった。そしてジョリーはこの社会には自分の入る隙間だってあるんだということをラヴォーンに教えてもらい、このままの生活を続けることに疑問を持った。つまり、ふたりの関係は、ラヴォーンの一方的なボランティアではなく、互いを必要とし合う対等な結びつきだったといえる。それは友情という甘い言葉で表すよりも、共に戦う「同志」といったほうがぴったりだ。社会を相手に孤独な戦いを続けてきたジョリー。ここにラヴォーンが参戦した。武器も持たずに劣勢を強いられていたジョリーは、ラヴォーンという強力な助けを得て、社会なんて恐れるに足らないという自信をつけていく。
収入のない若いシングルマザーがどうやってふたりの子どもを育てていくか――高校生の宿題にしては難しすぎるこの問題を前に、時に迷い、時に失敗しながらふたりは前進し続ける。やがて母さんの顔色を見ながら行動していたラヴォーンは、ジョリーを批判する母さんへの反対意見を面
と向かって言ったり、母さんの小言を聞き流したりできるようになる。そして最後には、母さんの眼鏡で見たジョリーは社会の落ちこぼれだけれど、本当は母さんと違う生き方をしているだけで、どちらの人生もそれぞれ価値があるということに気づく。そしてジョリーは何かにつけて、「誰も教えてくれなかった」と言っては逃げる態度を改めていく。まず、宿題のまちがいを指摘されても文句も言わず素直に訂正し、ラヴォーンを驚かせた。そして、一度素直になった心はスポンジのように様々なことを吸収し、ついには学校で習った救命法で自分の娘の命を救う。
こうしてふたりは戦利品として、社会で生きていくのに必要な何かを得た。それが具体的に何なのかは、本人にもまだわかっていない。それはいわば種のようなもので、ふたりはこの種をそれぞれの心の底にしっかりとうめて、土をかけてしまった。だから今残っているのは「たしかに起きた」という記憶だけ。自分たちのしたことが正しかったのかも今は定かでない。でも、何か知らないが必ず芽が出てくるという確信、それだけで十分これからの人生をひとりで歩んでいけるのだ。こうしてジョリーは母親として、ラヴォーンは大学を目指して、再びそれぞれの道を歩きはじめた。「同志」は戦いが終わればいっしょにいる必要はないのだから。
ある日、ラヴォーンは久々に出会ったジョリーから、ジェレミーのレモンの種から芽が出たことを聞かされた。それはふたりのあかるい未来を暗示しているかのようだった。
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〜ヴァージニア・E・ウルフの未訳作品を紹介します〜
"Rated PG: A bittersweet
story of first love" 『初恋』(仮題)
St. Martin's Press, Inc. 1981, 214pp.
ISBN 0-312-66400-1
作者ウルフの最初の小説がこの "Rated PG"。副題にあるように、ほろ苦い、本当にほろ苦いという形容がぴったりの初恋物語。
主人公ベアトリクスは15歳。父親を昨年亡くしたばかり。夏休み、母親と二人でいちご摘みとヴァイオリンの練習のために避暑地へ出かける。そこで20歳のヘイズと出会う。ヘイズは大学生。彼は、ベアトリクスの弾くヴァイオリンの音色に惹かれ、彼女自身にも好意をよせていく。ベアトリクスにとって5歳上の彼は刺激的だ。お酒を飲んだり、川で裸で泳いだり、そしてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の読書談義をしたり。
読みながら、私は、何度心の中でため息をもらしたことか。私自身の初恋も、似たような時期でやはり5歳年上の大学生だった。ベアトリクスの母は、年上の彼と過ごすことをこころよく思わない。だからこそ、娘が川で裸で泳いでいる姿をみた時は怒り心頭に発し、その上お酒まで飲んで帰宅したときはもう二度とヘイズと会うなと厳しく叱る。娘の説明など聞く耳もたず、とにかく、ふしだらだと怒鳴る母親の態度に、絶望するベアトリクス。私は苦笑と同時に昔の自分を見ているようで何ともいえない気持ちになってしまう。私の母もベアトリクスの母と同じくらい口うるさかった。裸で川で泳ぐことは、さすがにしなかったものの、私の話など聞く耳もたず、とにかく彼とつきあうなとそればかりの母の言葉にはうんざりしていたものだ。まったく、この物語はタイムスリップして、10代の自分をみるようで、気恥ずかしくもある。
そして、初めての恋は体中にエネルギーを満ちさせる。彼の気持ちにそうような、賢い女性になりたいと願う。彼の言葉ひとつひとつを理解し、近づきたいと思う。気持ちの機微が二人の会話から読み手に伝わってくる。私は何度も物語の中に入り込んでベアトリクスに忠告したくなってしまう。「もっと、自分をもって。相手にひっぱられすぎないで」と。
夏が過ぎ、二人は別々の生活にもどる。ヘイズは「結婚しよう」とプロポーズの言葉を贈り、とりあえず遠距離恋愛は文通 の形でつながるが……。
10章からなるこの物語はベアトリクスの成長物語でもある。年月を重ねるごとの、ベアトリクスの変化をみていくのも一つの楽しみ。
読後、私は10代の私にこの本を読ませて感想を聞きたくなった。ねぇ、おもしろい本だと思わない? 彼女はなんて答えるだろう。
(林さかな)
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"Probably Still Nick
Swansen" 『僕は、やっぱり僕なんだ』(仮題)
Scholastic 1988, 175pp.
ISBN 0-590-43146-3
ニックは16歳の高校生。19番教室の補習授業を受けている。19番教室とは、知的障害や学習障害の生徒を対象にしたクラスだ。ニックは知的発達に遅れはないが、読み書きに困難をきたすという学習障害をもっていた。
4月、クラスメイトのシャナが19番教室を修了した。お祝いのパーティーで記念写 真を撮るとき、彼女はわざわざニックの隣にきて、二人寄り添って写真に収まった。
シャナが気になるニックは、姉の写真に向かって訊ねる。だれかが僕のことを好きかどうか、どうすればわかると思う? 姉はニックが困ったときはいつも助けてくれたが、9年前に事故で亡くなっていた。写
真の中の10歳の少女は微笑むだけで、何も答えてくれない。それでもニックは話しかけ、やがて、シャナをダンスパーティーに誘うことを思いつく。シャナは、ニックの申し出を喜んで受けてくれた。二人は、幸せいっぱいのパーティーを迎えるはずだったが……。
初恋や挫折を経験し、姉への依存から脱して自己を確立していくニックに清々しさを感じる物語だ。ひとりの少年が困難に打ち勝ち、新しいことに挑戦していく姿は、読んでいる者に生きるエネルギーを与えてくれる。だが、その一方で、読者はこの作品から社会の暗い一面
を考えることにもなるだろう。
ニックは、小学校4年生から補習授業を受け始める。一緒に遊んでいた友人と別のクラスに通 うことになった不安感、他の人とは違うんだという気持ちは、次第に劣等感に変わっていく。ニックの内面
的な問題だが、これには周囲の人の行動も影響しているだろう。シャナに届いた「19番教室の生徒との交際をやめるように」と忠告するメモ、「補習授業のクラスに入ったら最後、まったくダメな子になってしまうよ」という見知らぬ
大人たちの会話などが織りこまれ、物語のあちこちに、障害をもつ人に偏見はないか、という問いかけが埋めこまれている。
『レモネードを作ろう』の主人公たちに貧困という壁があるように、ニックには偏見という壁がある。この作品はニックの成長物語であると同時に、障壁を乗り越え、信念を貫き通
してほしいという作者の強い願いが込められた作品だ。
(河原まこ)
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"The Mozart Season"
『モーツァルト・シーズン』(仮題)
Scholastic 1991, 249pp.
ISBN 0-439-16309-9
「君はブロッホ音楽コンクールのバイオリン部門でファイナリストに選ばれた」カプラン先生にそう言われてアレグラは驚いた。たしかに2月にコンクール応募のための演奏テープを送りはしたが、そのことはほとんど忘れていたし、まして最終選考に残るとは思ってもいなかったからだ。実はこのことは、先生も両親も少し前に知っていたが、学期が終わるまでアレグラには伏せていたのだった。最終選考の課題曲が応募曲と同じ、モーツァルトの「協奏曲第4番」だということも、アレグラは初めて知った。混乱しているアレグラに、先生は言った。「コンクールを意識すれば協奏曲は君にとって違ったものになってしまう。わたしは君にまず曲を愛してほしいのだ。それに君はソフトボールの選手だったから、シーズン中はそちらに集中してほしかった」と。ファイナリストの中で、どうやら12歳のアレグラが最年少らしい。アレグラは不安ととまどいで押しつぶされそうになるが、ようやく挑戦する決心がつく。最終選考は3ヵ月後の9月。ところがコンクールを控えたこの夏、アレグラの身にさまざまなことが起こり、心は乱れる……。
音楽って何だろう? 作品を読みながら、わたしは改めて考えた。アレグラも自らに問いかける。自分にとって音楽とは?
あまりにも身近にあると、気づかないことってあるだろう。音楽家の両親をもつアレグラにしてみれば、音楽は生活の一部で、あるのが当たり前だった。しかしアレグラはファイナリストになったことで、音楽と真正面
から向き合うことになり、その存在の大きさに気づかされる。それはアレグラがただ好きでやっていただけの音楽を、初めて芸術として意識した瞬間といえるかもしれない。
本作は音楽論としてとらえることもできる。作品に織り込まれているカプラン先生の言葉は、音楽そのものを語っている。「自分が奏でる音楽をよく聞いて、自分なりのモーツァルトを表現しなさい」と先生は言う。つまりテクニックではなく、音楽を体で感じて表現する術を教えているのだ。作中で語られるこれらの言葉は、作者の音楽に対する思いのあらわれだろう。実際に作者は小さい頃からバイオリンを弾いていたという。作品からあふれ出る情熱の源は、そこにあるようだ。
この夏、初めて知った一族の悲しい過去や、痛みをかかえた人々との出会いを通して、アレグラは自分の音楽を見つけ、自分らしさというものに気づいた。そしてわたしはこの物語を通
して、音楽とは自分のうちにあるものを音で表わすものであり、自己表現のひとつの術なのだと再認識した。
(蒲池由佳)
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"BAT6"『バット6』(仮題)
Scholastic 1998, 230pp.
ISBN 0-590-89799-3
時は1949年。オレゴン州の田舎町バーロウ・ロードでは、BAT6 と呼ばれるソフトボールの対抗戦が開かれることになっていた。これは、隣町ベアクリーク・リッジとの間で毎年行われるもので、今年は、50回記念大会だ。選手に選ばれた小学校6年の少女たちは、誇りと期待に胸をふくらませて練習に励んでいた。
ベアクリーク・リッジ小学校の一塁手は、日系二世のミカミ・アキ。長らく日系人収容所で暮らして、ようやく町に戻ってきたところだ。対するバーロウ・ロード小学校の外野には、引っ越してきたばかりの風変わりな少女シャザムが、レギュラーとして食い込んだ。そして、いよいよ5月28日、町中が待ちこがれていた試合が始まった。初回から点の取り合いとなり、白熱の好試合とだれもが思ったその時、シャザムがとんでもない事件を引き起こす……。
偏見と、そこから生じる憎しみ。いつの時代にも存在する、根深い問題を核にした物語だ。シャザムの父は、シャザムが幼いころ真珠湾攻撃で戦死した。シャザムは、それを母から繰り言のように聞かされて育ってきたため、日本人に対して病的な恐怖と憎しみをいだいている。BAT6
の大会でも、アキを見たとたん胸苦しくなり、ゴロで一塁にかけこんだ際、一塁手アキの顔面 をひじで強打して、重傷を負わせてしまう。
だが、シャザム自身もある意味では偏見の被害者だ。シャザムの母は、いわゆる未婚の母で、まだ高校も出ぬ うちに妊娠し、シャザムを産んだ。今から50年以上も前、それはすなわち社会のはぐれ者となることを意味していた。シャザムは、幼いころから教育も受けずに、トレーラーハウスで母とふたり住まいを続け、今ようやく祖母の元に越してきて、学校に通
いはじめたばかり。周りの友人たちは、義務感から親切にしてくれるものの、どこか腫れ物にさわるように彼女を扱う。
そして起こった BAT6 当日の悲劇。そもそもこの交流戦は、ケンカ別れした2つの町を仲直りさせるために、50年前、女たちが始めたものだった。ところが皮肉にもその記念大会が、暴力事件で中止になってしまったのだ。選手たちはもちろん、両町の住民のだれもが、傷つき、悲しみ、考える。いったい何がいけなかったのかと。
作者は、明確な答えを出してはいない。だが少女たちは、悲しみから立ち上がる過程で、これまで知らなかった相手チームの選手と少しずつ仲良くなり、交流を深める。またシャザムは社会奉仕活動を課せられて、貧しいアキの家の補修を手伝い、アキの兄と言葉を交わすようになる。
少女たちのシャザムへの態度にも変化が生じる。これまでは、倫理感や義務感からシャザムを迎え入れ、彼女が日本人への嫌悪をあらわにしても、真っ向から「いけない」と言い切ることができなかった。だが、物語の最後になって、ひとりの少女マンザニータが、いやがるシャザムをむりやりひっぱって、アキの見舞いに連れてゆく。初めて、むきだしの感情をシャザムにぶつけたのだ。
一方、聡明で、優等生的なアキもまた、小さいながら新たな一歩を踏み出す。気持ちを表に出すことが極端に苦手なアキは、だれが見舞いに来ても、「大丈夫。大したことないから」と伝えてきた。だが、友人にむりやり連れてこられたシャザムに対し、勇気をふりしぼって「とても痛かった」と伝える。自分の枠から一歩踏み出すこと。本気で対峙しあうこと。そうすれば、知らなかった相手に少し近づき、偏見打破への第一歩が踏み出せる。そんな作者の思いが感じられる。
ところで、この物語にはひとつ問題がある。それは、読むのが大変だということ。なにしろ両軍18名の選手と数名の大人たち、しめて20人以上の視点から語られるのだ。メモを取っていても途中で混乱して、大筋を追うのが精一杯になってしまう。題材も面
白いし、決して古びない問題を扱っているので、その点がどうにも残念だ。
(内藤文子)
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"True Believer"『信ずる者』レモネードを作ろう〜恋編〜(仮題)
Atheneum Books for Young Readers 2001, 264pp.
ISBN 0-689-82827-6
わたしは一歩一歩、高いところへと登っていく。
視界と可能性が広がる。でも、傷つき、傷つける可能性も大きくなるみたい。
放課後の補習授業がはじまった。
先生のローズ博士が、大志を抱くわたしたち13人の言語改造計画を進めた。
世の中は、話し方ひとつで人を判断するから。
新しいバイトもはじめた。小児病棟で寝具の洗濯をするだけなんだけど、
いつの間にか、それが将来わたしが目指すものにつながってゆく。
幼なじみのジョディが、このアパートに戻ってきた。
信じられないくらいかっこよくなっちゃって。
得意な水泳で、スポーツ奨学金をもらって大学に行くつもりだって。
彼も大学をめざしてる。わたしと同じなんだ。そういえば、かあさんたちも似てる。
女手ひとつでがんばって、いきごみが他とはまるで違ってたもんね。
エレベーターに漂う塩素の匂いは、ジョディの残り香。わたしの胸は躍る。
初めての恋、初めてのデート。
でも、初めてのくちづけだけ、何かがちがう……。
ずっと親友だったマートルとアニーは、新興宗教に走ってしまって、
私からどんどん離れていってしまう。これって、わたしのせいなのかしら。
かあさんに、恋人ができた。あんなにうれしそうなかあさんを見るのは久しぶり。
でも、家中に飾っていた、死んだ父さんの写真が急に消えたのはさびしい。
そして見てしまった。この上ない大きなショックをうける光景。
もう何も考えられない、何もできない。
大切な勉強まで、できなくなるくらい心はボロボロで、一人ぼっちな気持ち。
でも、かあさんはわかってくれた。今度もすくってくれた。気がつくと、新しい
仲間ができていたんだ。学校は、大学をめざすわたしを応援してくれている。
人生は、たくさんの変化球を投げつけてくる。
しかし、わたしはどんな魔球にだって負けやしない。
それが生きるっていうことだから。
『レモネードを作ろう』のラヴォーンが、ふたたび私たちの心を揺さぶりにきた。前作で貧困から這い出す手がかりを得た彼女は、切ない初恋を体験し、自分の道を阻むもの、助けるものに出会う。著者ウルフはこの作品で様々な愛や恋を描いている。ラヴォーンは、母や友人に支えられ、最終的な愛を見つける。ホイットニー・ヒューストンが名曲
"Greatest Love of All" で歌いあげたように、自分の尊厳を認め、「自分を愛する」ということだ。
(池上小湖)
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★中村悦子・中釜浩一郎 原画展 〜海外児童書の世界を描いて〜
・主 催:やまねこ翻訳クラブ 協力:文芸翻訳フォーラム
・場 所:早稲田奉仕園セミナーハウス1階ロビー
(新宿区西早稲田2-3-1 電話:03-3205-5411)
・会 期:2001年11月10日(土)10:00-18:00、11月11日(日)10:00-16:30
・内 容:「草原のサラ」「エリコの丘から」など、やまねこでも
おなじみの作品の表紙や挿絵を展示します。お楽しみに。
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発 行 やまねこ翻訳クラブ
発行人 瀬尾友子(やまねこ翻訳クラブ 会長)
企 画 河原まこ
編 集 柳田利枝
編集協力 三緒由紀 大塚典子 林さかな 蒲池由佳 内藤文子 池上小湖
キャトル きら SUGO ベス りり わんちゅく
協 力 @nifty 文芸翻訳フォーラム 小野仙内
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