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やまねこ翻訳クラブ 資料室
母袋夏生さんインタビュー


『月刊児童文学翻訳』2000年11月号より

 母袋夏生さんインタビュー ノーカット版

【母袋 夏生(もたい なつう)さん】

 1943年長野県生まれ。東京学芸大学卒業。1970年〜74年、イスラエルに留学。ヘブライ大学文学部修士課程実用言語コース修了。主な翻訳作品に『ぼくたちは国境の森でであった』(ダリア・B・コーヘン作/佑学社)、『編みものばあさん』(ウーリー・オルレブ作/径書房)、『ベルト』(ガリラ・ロンフェデル・アミット作/さ・え・ら書房)など多数。98年、ヘブライ文学翻訳奨励賞受賞。



Q★ヘブライ語に興味を持たれたきっかけをお聞かせください。

A☆大学を卒業して小学校の教師をしていたのですが、学生時代から「教育のユートピア」と言われていたイスラエルのキブツ(イスラエルの集約的農業共同体)の教育に関心がありました。キブツでは相対評価成績表のない絶対評価で、子どもの個性や才能を伸ばす教育が行われていたからです。若くて好奇心でいっぱいだったものですから、どうしても自分の目でその「ユートピア」を見たくなってしまったんですね。そこで情熱を武器に、研究したいことを論文にまとめて、キブツ運動のひとつである、キブツ・ハアルツィの事務局に送り、滞在先のキブツを推薦してもらいました。そこの養い親一家と一年間文通して決心しました。蛮勇とはいえ、我ながら感心するほど用意は周到でしたよ(笑)。
 周囲からは猛反対を受けましたが、必死で説得。勤務先の学校も、一年なら休職扱いにしてもらえたところを、退職して渡航しました。
 なお、キブツ研修グループは今年までイスラエル大使館のバックアップで毎年派遣されていました。現在は、日本共同体協会(電話:0288-26-1219)がグループ派遣することもあるそうです。単独でキブツに行きたい場合はイスラエル大使館のHPの広報部をお調べになるといいでしょう。


Q★イスラエル留学中には、どのような研究や勉強をされていたのですか。

A☆初めの10か月はボランティアとしてバラ園で働きながら、キブツ併設の語学学校でヘブライ語の勉強をしました。当初の目的は「キブツ教育の研究」だったのですが、養い親として世話してくれた一家のお母さんが詩人で、文学の話をしているうちに、ヘブライ語の文学について深く学びたいという思いが出てきてしまったんです。それで、ヘブライ大学の夏期言語研修コースに入学しました。政治、経済、宗教、文学など盛りだくさんのメニューで朝から晩までしごかれ、山のような宿題を抱えたひと夏でした。そのとき文学を担当していた先生の勧めもあって本格的に文学、特に翻訳をやる決意を固め、秋の新学期には運よく修士課程に入ることができました。その後、イスラエル政府招聘留学生になって経済基盤を確保し、開設されたばかりの「翻訳」ディプロマコースの第一期生になりました。3年間児童文学を中心にヘブライ文学と翻訳論の研究をしました。
 コースは文学、歴史、論文など全般が対象でしたが、やはり自分がいちばん好きな児童文学と、個人的に関心を持っていたホロコーストのドキュメントを中心にしよう、いずれ日本に帰らなくちゃならないのだから、広く浅くでなく、おもしろいと思える作品や作家に会っておこうと、キャンパス内だけでなくあちこちの研究会やゼミに顔を出しました。そういうことを全面的に肯定してバックアップしてくれる態勢で教授も応援してくれました。


Q★イスラエルから帰国後、翻訳のお仕事を始められるまでのお話をお聞かせください。日本ではなじみの薄い言語ですから、ご苦労もあったのではないでしょうか。

A☆1975年に帰国し、2年ほど大学教授の論文作成助手をしたり編集プロダクションに勤めたりしたあと、出版社に入りました。知らないことばかりだったので、何年か仕事に夢中で過ごしましたが、原書を読んだり訳したりは、少しずつ週末に楽しみながらやっていました。そうしてないとヘブライ語を忘れてしまいそうでしたし。持ち込みもしましたが、簡単にはいきませんでしたね。言語の問題というより、当時は、第4次中東戦争の直後ということで、イスラエルの作品は敬遠される傾向にあったからです。
 加えて私自身、日本の出版事情を把握しきれていなかったため、どういう本が出版に価するのかを客観的に判断できていなかったと思います。それもあって、実際に持ち込みが本の形になるまでには、長い時間がかかりました。
 出版社には、1988年までの11年間勤めました。


Q★どのようにして、翻訳のお仕事の場を広げていかれたのですか。

A☆いろいろな出版社に持ち込みました(気後れする質なので訳稿に手紙を添えて送るほうが多かったです)が、単行本の企画はなかなか実現しませんでした。最初の仕事は、1989年に雑誌『暮らしの手帖』に2回にわたって掲載された『一夜の宿を』(マーニャ・ハレーヴィ作)という短編です。雑誌というメディアの性質上、幅広い読者のかたに読んでいただけたのは幸いでした。
  初めての単行本は、1990年にミルトスから出た『ユダヤ式家庭教育』です。これは持ち込みでなく、私が書いた書評を読んだ編集者からの依頼でした。「家庭教育の本なので訳者は女性を」と判断されてのことでしたが、男性か女性か判別不能な名前なので、私のことを調べてから連絡くださったようです(笑)。
 翌年には、イスラエル留学中に知ったデボラ・オメルの『ベン・イェフダ家に生まれて』が福武書店(現ベネッセ)から出ました。いつか必ず日本に紹介したいと思い続けていた作品でしたので、飛び上がるほど嬉しかったです。「文庫で」とのお話で、文庫だと読者層も広いだろうと、これも嬉しかったです。まず、イスラエルのこと、ユダヤ人やパレスチナ人のことを知ってほしいという望みが強かったですね。

『お願い、わたしに話させて』表紙  

『お願い、わたしに話させて』
レナ・キフレル=ジルベルマン作
母袋夏生訳
朝日新聞社 1993.

 ホロコーストを生き延びた子どもたち9人に聞き書きした作品。子どもたちの意志と生命力が胸を打つ。
 母袋さんにとって、思い出深い作品のひとつ。


Q★今でも、訳書のほとんどは持ち込みとのことですが、どのように情報収集していらっしゃるのですか。

A☆インターネットがいいのでしょうが、時代に乗り遅れているほうで、未だにヘブライ語をダウンロードできないのです……(笑)。基本的には、「ハアレツ」という日刊紙が週一回出しているブックレビューを定期購読しています。ヘブライ文学翻訳インスティチュート(The Institute for the Translation of Hebrew Literature)が毎年、フランクフルトブックフェアに向けて一般文学、ボローニャブックフェアに向けて絵本を含めた児童文学のカタログを出しているので、それもチェックします。児童文学ではもう一つ、数年おきに補遺版が出ているカタログ(教育文化省発行)も送ってもらってます。チェックした書名をエルサレムの友人にFAXすると、彼女が発注から送付までやってくれます。もちろん、お金を預けていてのことですが、アドバイスもしてくれるし、調べものもしてくれて、ほんとに助かっています。友情に感謝です。


 

Q★イスラエルを代表する児童文学作家、ウーリー・オルレブの作品を多く訳されていらっしゃいますね。オルレブ作品の魅力は、どこにあるのでしょうか。

 A☆オルレブは、ホロコーストを生き抜き、当時について語った作品も書いていますが、「ホロコースト作家」という枠でくくられるのを非常に嫌います。そういった先入観によって、本質的な部分がこぼれ落ちてしまうと恐れているんですね。たまたま彼はホロコーストの語り部的役割を担っていますが、フィクションでもノンフィクションでも、感情的情緒的表現を抑えて物語れる作家だと思います。
 私自身、彼の作品をホロコースト作品として読んだというより、おもしろいから読んだ、というのが最初のとっかかりでした。それが、たまたまホロコーストを扱っていた、しかもフィクションなのに読ませる作品だったのです。ホロコーストを伝えるものは証言(ドキュメント)類のノンフィクションだけだ、と思っていた石頭をドカンと突かれた気がして、訳したい、と思ったのです。
『砂のゲーム』表紙

『砂のゲーム』
ウーリー・オルレブ作
母袋夏生訳
岩崎書店 2000.8
『羽がはえたら』の表紙

『羽が生えたら』
ウーリー・オルレブ作
母袋夏生訳 下田昌克絵
小峰書店 2000.6
 彼は既成の価値判断や感傷を排して、子どもの目、子どもの心のままにホロコーストを物語っています。そして、その語りの根底にあるのは被害者としての不幸を嘆くより、置かれたマイナスの条件をプラスに変えていこうとする柔軟な精神だと思います。これは、ホロコーストを扱っていない作品にも通じることですね。彼の作品を読むと、いつも気持ちよく人生を肯定している自分に気づきます。
 ただ、オルレブは児童書作家として受け入れられたあと、50歳近くまでホロコーストを題材にしませんでした。あの時代を消化し昇華させるまでに、彼自身にとっても「時」が必要だったのではないでしょうか。

Q★イスラエルの児童書を通じて、日本の子どもたちにお伝えになりたいことは何ですか。

A☆私は子どもの頃から本は「窓」だと思っていて、いろんな窓をのぞきたかった。とくに翻訳作品は窓から見える景色が見慣れたものと違っていて、好奇心のかたまりでした。その思いは今も変わっていなくて、いろんな窓をのぞきたいし、のぞいておもしろかった窓を、ほかの人にも見せたいというのが根っこにあります。イスラエルの風土や生活や考え方は日本のそれとずいぶん違いますが、似ている点もあります。そういうものを全部ひっくるめて、「窓」からのぞいて楽しんでほしいと思っています。


Q★今後のお仕事のご予定について教えてください。

A☆来年1月、オルレブの『かようびはシャンプー』の続き、『ライオンはパジャマに』(仮題)が講談社から出る予定です。中世の異端審問を背景にした少年の物語、旧約聖書をもとにした民話、オルレブの最近作もいじっています。3年越しにあたためている企画に、ホロコースト詩人ダン・パギスが、彼を捨てた父親への思いを綴った『父・鎮魂歌』というのもあります。ほかに、大人向けですが、イスラエルの作家作品集と、ユダヤ人のルーツ探しにも似たアレフ・ベイト・イェホシュアの大作にも取り組んでいますが、どうなるでしょう。


Q★最後に、翻訳家をめざす読者のみなさんにアドバイスをお願いします。

A☆このコーナーの第1回でこだまともこさんがおっしゃっていたように、ジャンルを問わず、言語を問わず、たくさん読むこと。原書をたくさん読んでいると、訳してみたいと思う本に出会えるはずです。日本語の本では文章の美しさやリズム、言葉の奥行きや含意を味わってほしいと思います。

インタビュアー : 中村久里子

※本の表紙は、出版社の許可を得て使用しています。

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